2012年2月24日金曜日

SEIKYO online (聖教新聞社):薫風23

SEIKYO online (聖教新聞社):薫風23

「親子、家族の絆は強い。成仏のためには、生前の故人の信心が最大の要件であることは当然ですが、残された子どもなど、家族が真剣に題目を送ることによって、故人を成仏に導くことができます。

 他界したあとは、回向される側の成仏・不成仏は、回向する側の信心のいかんにかかってきます。したがって、ご遺族など、回向する方々が、強盛に信心に励んでいくことが、大事になるんです」

 次いで伸一は、仏法で説く、「逆即是順」(逆即ち是れ順なり)の法理に言及していった。「逆」とは逆縁、すなわち、仏の教えを聞いて正法を誹謗することであり、「順」とは順縁を意味し、仏の教えを聞いて素直に信心することをいう。

 「逆即是順」とは、一切衆生は仏性を具えているがゆえに、たとえ正法を誹謗した人であったとしても、正法に縁したことが因となって、必ず成仏できることを説いたものである。

 「ゆえに、南無妙法蓮華経という大法をもって回向するならば、物故者の生命が悪業をはらんでいたとしても、悪は即善と顕れ、成仏させることができるのであります。しかも、この題目の回向によって、自分自身にも福運と威光勢力が具わっていきます。そこに、私どもの追善の深い意義があります」

SEIKYO online (聖教新聞社):薫風22

SEIKYO online (聖教新聞社):薫風22

 「私どもの生命は永遠であり、今世から来世、来世から、さらに次の世へと生まれていく。それを順次生と言います。そして、今世の所業によって次生以後の果報、すなわち報いが決定されていくと説かれています。つまり、無始無終に連続する生命活動にも、厳然と因果の理法が存するのであります。

 今世において、御本尊を受持し抜き、強盛に信心を貫いた場合には、それが因となって来世の成仏が約束される。反対に、正法を誹謗した場合は、来世に無間地獄に堕ちる因をつくっていると説かれているんです。

 したがって、今世において、人びとの幸福を願い、広宣流布の使命に生き抜いていくならば、どんなに辛く苦しい思いをしようが、たとえば、大弾圧の果てに命を奪われようが、来世の成仏は間違いありません」

 三世の生命という法理を知ることから、正しい価値観も、人生観も、そして、真実のモラルも確立されるのである。

2012年2月7日火曜日

SEIKYO online (聖教新聞社):二足歩行によって人間の脳は発達したが、骨盤の変形で産道が狭まり、難産になった。

SEIKYO online (聖教新聞社):二足歩行によって人間の脳は発達したが、骨盤の変形で産道が狭まり、難産になった。


 二足歩行によって人間の脳は発達したが、骨盤の変形で産道が狭まり、難産になった。だが、その逆境が“人間らしさ”を生んだという▼一頭だけで出産できるチンパンジーと異なり、人間の出産には、介助者、協力者が必要だ。それがDNAに組み込まれ、他の動物にはない「自発的な協力」を身につけた(NHK「ヒューマン なぜ人間になれたのか」)▼人は、誕生から他の人間の世話になり、一人前に育つまで多くの支えがいる。「育」という漢字の部首は肉月。上の部分は一説には、「子」を逆さまにした形で、子どもが生まれる時の様子。そして、赤ちゃんに筋肉をつけさせ大きく育てる。ちなみに「充」は、生まれた子が成長し、二本足(儿)で立てるようになった様。その時、親や周囲の人々は充実感を味わう▼子どもを、皆の励ましの輪の中で育てようという「教育のための社会」。その実現は、まさに人間らしさの帰着といえよう。池田名誉会長は「わが教育者に贈る」に「支え合い、励まし合って生きるのが、人間です。そこに人間性の源泉もあります」と綴った▼震災復興のキーワードになっている「助け合う」「絆を強める」「つながる」ことは、実は、人間を人間たらしめている根幹なのだ。(杏)

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しかし二足歩行でないときでも仲間・家族グループを形成し生き抜いてきたんだろうと思う。
他人との仲間、家族仲間この2点の形成意義には大きく隔たりもありそう。
日本の現代社会の生活レベルの発展の方向をみていると、
人間は本来あまり干渉されたくない生き方を実は望んでいるのではなかろうかと思うこともある。
それとも人間の無意識による反応として日本列島に1億人以上住むのは窮屈だと感じているのかもしれない。
なんとなくだけど。


2012年2月6日月曜日

SEIKYO online (聖教新聞社):薫風8

SEIKYO online (聖教新聞社):薫風8

「司会者は、勤行の副導師を務めることもあるので、今日は、副導師の基本についても話しておきます。

 副導師をする場合には、まず、導師の声をよく聴いて、その声に、合わせていくことです。導師を差し置いて、先に進んでしまってはならないし、遅くなってもいけません。

 そのうえで、白馬が天空を駆けるような、軽快なリズムの勤行にしていくことです。

 また、大人数で勤行をすると、読経も、題目も、だんだんと遅くなりがちです。副導師は、それに引っ張られてしまうのではなく、軽やかなテンポで、みんなをリードしていかなくてはならない。

 さらに、読経の発音は、明瞭であることが大事です。そうするには、日々の勤行の際に、いい加減な発音になっていないか、息継ぎの場所は適切かなど、よく注意し、完璧な勤行をめざして、努力していくことです。

 ともかく、音吐朗々と、さわやかに、力強い勤行を心がけることです。この九州訪問では、副導師の訓練もしていきます」

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唱題会ではテンポがバラバラであるとそっちにばかり気になって集中できないことも多いし、

それを嫌って参加しない方もいるのかも知れない。。。。

っというか自分がそれに当たる。。。

皆でするときは自分勝手なリズムでやるのは気をつけて控えていきたい。



2012年2月3日金曜日

SEIKYO online (聖教新聞社):どんな人のなかにも「仏の生命」がある――これが法華経のメッセージだ。

SEIKYO online (聖教新聞社):どんな人のなかにも「仏の生命」がある――これが法華経のメッセージだ。

どんな人のなかにも「仏の生命」がある――これが法華経のメッセージだ。しかし、これは難信難解(信じ難く理解し難い)。
日蓮大聖人は例えば「観心本尊抄」の中で、そのことを繰り返し強調されている
▼のみならず「汝之を信ぜば正法に非じ」(御書241㌻)とまで仰せである。〝今あなたがこれを信じたら、正法にはなりません〟と。
法華経のすばらしさを宣揚しつつも、法華経の教えはたやすく信じられるものではない、ということだ
▼その心は「軽信に陥るな。分かったつもりになってはならない」との戒め、と拝することもできるだろう。まことに、信仰の敵とは〝懐疑〟ではない。
〝軽信〟なのだ▼苦難に直面したとき――。祈り、戦い、乗り越えてこそ、人は自身の胸中に〈不屈の魂〉を実感する。
真心こめて励ました友が、見事に蘇生し得たとき、私たちはそこに〈大いなる生命〉を発見する。信仰体験とは、互いの〈仏性〉確認のためのドラマであろう
▼「難信難解」の4文字は〝難に鍛えられての信仰、難を乗り越えての理解〟と受け止めたい。だからこそ私たち創価の友は、
どんな苦難にも決して負けず立ち上がるのである。万人に仏性あり――その証明は、私たちの使命であり、喜びである。(克)